映画レビュー0644 『ファイト・クラブ』

久しぶりに「今さら初鑑賞」シリーズです。そうです、初めてなんです。ポッ。

ずーっと観たいとは思っていたんですが、やっぱりこういう旬を逃した有名作っていうのは、なんか借りるほどでもないというか…いつかなんかで観られるんじゃないかな、って後回しにしちゃうんですよね。そしてその“いつか”がNetflix契約でやっときたぜ! ということで。とか言いながらもう20年近く前になるんですか…。

ファイト・クラブ

Fight Club
監督
脚本
ジム・ウールス
原作
『ファイト・クラブ』
チャック・パラニューク
音楽
ザ・ダスト・ブラザーズ
主題歌
『Where is My Mind?』
ピクシーズ
公開
1999年10月6日 アメリカ
上映時間
139分
製作国
アメリカ
視聴環境
Netflix(PS3・TV)

ファイト・クラブ

自動車会社勤務の“僕”は平凡ながら不自由のない日常を送っていたが、しかし不眠症に悩まされていた。ある日、不眠症を診た医者に行くように勧められた「睾丸がん患者の集会」に行った“僕”は、そこで一緒になった男・ボブの胸で堰を切ったように涙を流すことで不眠症が改善されたことに気付き、以来その手のいろんな集会に顔を出してはストレスを解消していた。しかしある時、“僕”と同じように「集会に関係がない偽物」と思しき女・マーラと出会い、彼女を気にするあまり泣けなくなってしまった“僕”は、またも不眠症が悪化していってしまう…。

映画としてはさすが。でもストーリーがすげー嫌い。

6.0

今の時代においても「男の鑑、憧れの男ブラピ」が語られ続けている、世の中においては名作と言われている映画と言っていいでしょう、ファイト・クラブ。主役はエドワード・ノートン演じる、劇中で名前が語られない男、“僕”。そしてヘレナ・ボナム=カーター演じる、その“僕”と同じようにいろんな集会に顔を出す謎のメンヘラ風女性マーラと、よっ! 待ってました! 的にご登場のブラピ演じる、飛行機でたまたま僕と隣り合わせになった謎の怪しげな男、タイラー・ダーデンの(主に)3人が送る物語。

「ファイト・クラブ」と言うと、拳と拳のぶつかり合い、裸同志の殴り合いで男の友情がウオー! みたいな話だと思っていたんですが、もちろん(?)そんな単純なお話ではありませんでした。殴り合いはきっかけに過ぎず、そうやって出来たグループがどういう成長を遂げ、世間とどう関わっていくのか、そしてそれを成し遂げる人物たちの人間像に迫る…人間ドラマ的サスペンス、って言うのかなぁ。思ったよりも深いお話でした。まあフィンチャーの映画なので、単純なアクション映画ではないのは明らかではあったんですけどね。

興を削がない程度に書くとすれば、終盤までの基本的な流れとしては、友情とか愛情とかその手のお話よりも洗脳とか新興宗教とかそっちの方のテーマに近いというか。カリスマ性を持った人間が周りをどう巻き込んで、そしてどう逸脱していくのかを観ていく…という、結構現実に応用が効きそうな、現実を見る時にも参考になりそうな面白い話だなーと思っていたんですよ。

徐々に距離が出てくる“僕”とタイラーの描き方も、「組織が大きくなりすぎて袂を分かつ創始者コンビ」みたいな、同じフィンチャー映画で言うところの「ソーシャル・ネットワーク」的な展開に似たものがあって、ナルホド結構ありそうだなフムフム、と興味深く観ておりました。

が…!!

もうね、オチが最悪。オチ前の種明かしも含めて、最悪。

「えー、そういう話なのかよー」とガッカリ感MAX東MAX。東MAXランドですよ。…残念!

種明かしがわかって以降、振り返ったらもう観客へのミスリードがひどいひどい。もちろんヒントになりそうなシーンもいくつか記憶にありましたが、でも基本的には観客が推理しようがない展開だし、最終的になんでもアリになっちゃってるのがもうウンザリ。

フィンチャーって「ゲーム」と言い、こういう「最後ビックリすりゃいいでしょ」みたいな展開多くない? 最近自分の中で「フィンチャーの映画って実はダメなんじゃねーの」説がにわかに湧いてきました。面白いんだけど、納得感が薄い。特にホントのラストのラストなんてあり得ない状況だし、あそこでもう激醒めしました。

その種明かしの部分については、まあ別に観客が推理出来なくて構わないとも思うんですよ。わかっちゃったらわかっちゃったで文句も言う嫌な客だし。こちとら。でもねー。ちょっとああいう話だったら矛盾がありすぎ=ミスリード狙いすぎで、そこがどうしても好きになれなかった。

それと今もって語られる「ブラピカッコイイぜ最高だぜ男はやっぱりタイラーのようにならないと!」的な価値観も共感できなかった、っていうのが大きいですね。あのマッチョ志向はどうにも受け入れがたい。そこに良さがあるのもわかるんですが。「下層で働く人間も、戦いに身を投じれば人間的な強さが云々」みたいなものの魅力。

それはそれでわかります。わかりますが、嫌い。結局あいつらバカばっかじゃねーか、って話でもあるし。もうちょっと血気盛んな若い頃…そう、ちょうど公開当時にリアルタイムで観ていたら、もしかしたら強く影響を受けていた可能性もあったかもしれませんが、枯れたオッサンにとってはまったく魅力的に写りませんでした。

ただ、「僕が彼らに共感できない」というのと、「タイラーのカリスマ性がスゴイ」というのは両立できることでもあるので、なるほど確かにこのブラピの役はすげーな、こりゃ大したカリスマ性だわ、というのも感じました。ただそれが好きか嫌いかの違いかな、と。

映像面や演技に関しては文句なく、この辺はさすが(監督含め)芸達者な人たちが集まってるだけあるな、と思いましたが、しかしやっぱり話自体が嫌い。

なので、僕としては一度でごちそうさまです。もう多分二度と観ないでしょう。

このシーンがイイ!

オープニングかなぁ。さすがフィンチャーだぜ! ってこの時点では興奮してた気がする。かっこいい。

ココが○

劇伴がこれまたかっこよくてですね。映像も音楽も演技もどれもいい、でも嫌いというなかなか珍しい映画となりました。

ココが×

上に書いた通りですが、もうちょっと…ねぇ。ああいう話なら、日常にもっとアラが表出してくるはずで、特にキーマンと言えるマーラがもっとヒントを出しててもおかしくないと思うんですけどね。なんとなく「ユージュアル・サスペクツ」っぽい。あとで振り返るといろいろおかしくね? って感じが。

それでもただのサスペンスならまだ良かったかもしれないんですが、根底にあるマッチョ志向がどうにも好きになれない。

MVA

確かにブラピはすごかったし、普通に考えれば彼でしょう。もう「バイキンいっぱいだぞ~」のシーンとか最高でしたね。ブワワワワ~って。

メンヘラ風演技をさせたら最高峰の女優な気がするヘレナ・ボナム=カーターもさすが…なんですが、僕はこの人なんじゃないかなーと思うんですよね。

エドワード・ノートン(“僕”役)

普通っぽい主人公。

強烈な二人に囲まれてある種個性を殺されている格好の方ですが、しかしこの普通感、そしてたまに見切れる異常感、やっぱりこの人もさすがだなと思うわけです。

この前の「17歳のカルテ」のウィノナ・ライダー同様、普通っぽいのが難しい面もあるし、それをしっかり見せてブラピを引き立たせる演技というのはこの人らしいテクニカルなものだったと思います。

エドワード・ノートンなんて意外性のある役をやらせたらNo.1って言っても良いぐらいの人ですが、それだけ地力があるからこその「普通」だったのかな、と。ただ、「17歳のカルテ」のウィノナ・ライダーほどの強烈さは感じませんでしたが。

この映画でエドワード・ノートンが“光らせた”のがブラピ、「17歳のカルテ」でウィノナ・ライダーが同じく“光らせた”のがアンジーということで、たまたまとは言え、我ながらこの時期によくこんな皮肉な組み合わせの映画を観たな、と思いますね。嫌なやつですよ。まったく。しかもこの2つの映画、同じ1999年公開という。

ちょっと出来過ぎじゃないか…!

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