映画レビュー0646 『抱きたいカンケイ』

なんとなく「これも観ておくかー」程度にリストに入れておいた作品ですが、これまたこの週末に配信終了とのことだったので、んじゃーまあ観ますかね、ということで。

抱きたいカンケイ

No Strings Attached
監督
脚本
エリザベス・メリウェザー
原案
マイク・サモネック
エリザベス・メリウェザー
音楽
公開
2011年1月21日 アメリカ
上映時間
110分
製作国
アメリカ
視聴環境
Netflix(PS3・TV)

抱きたいカンケイ

かつて中学生の頃出会ったアダムとエマ。その十数年後、2度の再会を経て流れでセックスに至った二人は、「彼氏なんて欲しくない」というエマの提案により、セフレとして頻繁に会うようになったが…。

悪くないんだけどもう一つ強烈なポイントが欲しい。

6.0

ヒロインにナタリー・ポートマン、相手役にアシュトン・カッチャーというラブコメ。「相手役がナタリー・ポートマンと釣り合ってない」とか言うレビューも見かけました。かわいそうなアシュトン・カッチャー

二人の出会いは中学生の頃に遡りますが、その辺のオープニングで語られる出会い&最初の再会はさして大きな意味もなく、要は「再会した二人がヤッちゃった勢いでセフレ契約するも、次第に情が移っちゃってあーだこーだ」というお決まりのお話。

ナタリー・ポートマン演じるヒロインのエマはお医者さんで、超ハードワーカーらしく、また常に異性の不満点ばかり見てしまう性格からか「彼氏なんていらない」と言いつつもセックスはしたい、という才女ながら奔放な女性。こういう女性をナタリー・ポートマンが演じること自体は結構新鮮でした。

んで、アシュトン・カッチャー演じるアダムは、エマにとってはある意味で昔なじみでもあるし、優しいし背も高いしイケメン、父親は超有名司会者でお金も持ってるいという…これ以上セフレとして申し分ない人はいない、ってことで彼に「セフレ契約」を持ちかけるわけです。

その時の条件として「嫉妬はしない」「どっちかが本気になったら関係終了」などの…まあこれまたありきたりではありますが、上島先生の「押すなよ押すなよ!」バリの前フリとして機能するお約束が盛り込まれ、「どっちかがそうなっちゃうんでしょー」ってな観客の想像通りに進むお話でございます。

んで、まあもうその契約の時点で見え隠れしちゃってるんですが、もうアダムの方は最初から惚れそうなのがバレバレなんですよね。ってかそれ以前にジャンル的にいろいろバレバレやないか、とか言われちゃうともうどうしようもないのでその辺は目を瞑っていただくとして、ですね。

劇中、アダムの友人が言っているように、確かにこんなに「都合のいい女性」はいないとも言えるんですが、ただそれは男側に情が生まれる可能性が低い場合の話で、男の方…つまりアダムがエマに惚れる可能性が高そうだぞ、となると、この“お約束”がものすごい足かせになってくるのは容易に想像できるわけです。そんなの嫉妬しちゃうに決まってるよな、とか。

その辺…特に序盤から中盤にかけては、そういう足かせがうまく機能していて、なかなか酷なお話になってきたねぇとニヤニヤ観ていました。

僕が男だからかもしれませんが、そんな感じで終始「男目線のラブコメ」だった気はします。この部分は珍しいかも。

正直、中盤以降のエマ側の心の動きはちょっと男の妄想というか…願望的なニュアンスに感じられたし、多分「本当のエマ」がいたらもっとドライだったんじゃね? って気もするんですよね。そういう意味でも男目線な感じで。ただ、アダム君はきちんと意思表示もして行動力もあったので、確かにこりゃーいい男だし、これはこれで正しい展開だったのかもなぁ、と恋愛に疎いオッサンは思いました。まる。

というわけで、大まかな内容については特に不満もなく、まあベタとは言え悪くなかったんです。そもそもラブコメ自体、大体がベタになるものだし。それなりに笑いもあったし、気軽に観られる感じで良かった…んですが、しかしどうしてもイマイチ感が強かったんですよねぇ。

そうなんですよ。そうなんです。おわかりでしょう? もう。

もーね、ラブコメって時点で、どうしても比べちゃうわけですよ。おヒューと。「これ、相手がおヒューだったらどうだろうな」とか。

アシュトン・カッチャーは決して嫌いではないんですが、あまりにも普通のイケメンすぎて面白みがないんだよなー。おヒューのような「ダメ人間だからこれはもしかするともしかする、(悪い方の)ワンチャンあるで…!」みたいな意地の悪い観客的な楽しみ方を挟む余地がまるでなく、至って順当に流れすぎるのがやっぱり残念なんですよね。

もうちょっとハラハラしたかったし、「ダメな男め!」ってちょっと下に見てニヤニヤしたいというか。ってかそう思う僕が完全にダメ男なんですが、ちょっとは観客にいい気分にさせてくれよ、みたいな面があったのかな、と。イケメンが美女とセフレになった時点でこっちは面白くないわけですよ。

で、その上もう本当に文句の付けようがない良い奴でグッドルッキングガイなんですよ。こいつが。アダムが。主役がこれじゃあ、観てる方は一歩引いちゃうのも仕方ないのかな、と。いわゆる「美男美女が出てくるだけの恋愛モノはクソだ」理論ですよ。まんまその流れに沿っちゃってるという。もっと主役は弱みを見せるべきだと思うんだよなー。ダメなところに共感できる要素がなかったら、そりゃあモテない男たちは総スカンですよ。ということで改めておヒューの偉大さを感じた次第です。

そんなわけで、もう「まあまあ」としか言いようのない映画ではありました。設定から結末まで、すごく教科書通りというか…あまりクセのある人物も出てこないし、もうちょっと強烈なポイントが一つ欲しかったかな、という印象。

ああ、ただアダムのお父さんはある意味で強烈ではありましたが…。

このシーンがイイ!

黒人友達のウォレスが「俺の表情を読め!」的なことを言ってるシーン。なんかシュールで笑えました。男友達はみんなバカっぽくてよかったですね。

ココが○

割と淑女系だったり知的だったりな役が多いナタリー・ポートマンがこういう役をやる、っていうのは彼女が好きな男性陣にとってはなかなかありがたや案件ではないかと思います。

ただ、サービスカット的なものはあんまり期待しないほうがいいでしょう。下着も無難な黒だったし、おっぱいも出てこなかったし。しっかりチェックしてましたよそこは。ええ。

ココが×

物足りない感がすごいんですよね。想像以上の部分がまったくないからなんでしょうか。

ナタリー・ポートマンかアシュトン・カッチャーに興味がない以上は、今あえてこれを観る必要性が感じられない、至ってフツーなお話だったのが残念。

MVA

主演二人はどちらも悪くなくて、特にナタリー・ポートマンは上に書いたようにいろいろとレアな気がしてよかったんですが、でも結局はこの人がさすがの存在感だった気がする。

ケヴィン・クライン(アルヴィン・フランクリン役)

まあもうね、いい歳こいて息子の元カノと婚約までしちゃう、っていうプレイボーイぶり、そして息子に恥じること無くクスリもやってラリっちゃうようなオープンな父親像、っていうのがね。もうハマりすぎでしたね。さすがです。このアルヴィンとアダムの親子像はなかなか良かったと思います。ちょっと羨ましかった。

〈余談〉

そんなわけでおヒューに思いを馳せてしまったがために、この映画鑑賞後すぐにNetflixにあったこともあって「噂のモーガン夫妻」を観てしまいました。ただおヒューへの思いが増した分、初回鑑賞時よりも面白くなっていたかと思いきやそんなでもなかったという。

さらにまだちょっとおヒュー腹が足りなかったので、今度はYouTubeで「ラブソングができるまで」のオープニングPVまで観ましたよ、というご報告です。

PVラス前、彼女が去っていったドア前で相方に支えられながらおヒューが胸に手を当てて歌うシーン(「Pop! Goes My Heart」の歌詞が最後に出て来るシーン)があるんですが、あそこで明らかにおヒューが笑っちゃってるんですよね。完全にNGな感じで。

あれ何回観ても笑っちゃう。何回観ても笑っちゃうぐらい何回も観てるってことだけど。

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