映画レビュー1389 『オッペンハイマー』
待ったよ!えらい待ったよ!
アメリカ公開から約8か月、内容が内容なのでその判断に理解はしつつ「ノーラン作品をここまで待たせるとか舐めとんのか」と怒り狂うのにも疲れた昨今、ようやく公開ということで問答無用で劇場まで行ってきましたよ。劇場は約半年ぶりです。
なおパンフレットは売り切れてました。ファック。
オッペンハイマー
クリストファー・ノーラン
『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』
カイ・バード
マーティン・J・シャーウィン
キリアン・マーフィー
エミリー・ブラント
マット・デイモン
ロバート・ダウニー・Jr
フローレンス・ピュー
ジョシュ・ハートネット
ケイシー・アフレック
ラミ・マレック
ケネス・ブラナー
デイン・デハーン
ジェイソン・クラーク
デヴィッド・クラムホルツ
トム・コンティ
2023年7月21日 アメリカ
180分
アメリカ
劇場(IMAXレーザー・2D)
傑作ながらファンとしては物申したい。
- 「マンハッタン計画」の中心人物として原爆開発に携わったオッペンハイマーを描く
- 彼の半生を追った過去の話と、彼を追い落としたい政治家との現在の戦いが交錯する流れ
- ノーランらしい詰め込みっぷりで長さを感じさせないものの、詰め込みすぎ感は否めず
- 日本人としてはやっぱりいろいろ思わざるを得ない
あらすじ
「ノーラン次回作はオッペンハイマーを描く伝記映画」と聞いたときは「ノーランが伝記映画…?」と期待半分不安半分な感じでしたが、まあさすがノーランだけあってノーラン節を感じる変態映画な側面がありつつ、ただ内容は内容だしその他いろいろファン故の複雑な思いも手伝って言いたいことがいっぱいあるよと。長くなりそうな予感ですがとりあえずあらすじから。
1954年、赤狩り最盛期のアメリカではロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)が「ロシアのスパイだったのではないか」との疑惑を受け、狭い会議室での聴聞会で追求され、学生時代から“原爆誕生”の「マンハッタン計画」までの自らの過去を語っていきます。
一方アメリカ議会ではルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)が商務長官(日本における経済産業大臣)として相応しいかどうかの公聴会が開かれ、そこでオッペンハイマーとの確執についての質疑が繰り返されます。
オッペンハイマーの口述を過去シーンの形で振り返りながら、なぜストローズは彼を敵視するようになったのか、そして英雄であるはずのオッペンハイマーがなぜ今ここで責められているのか、その歴史を追っていきます。
字幕を諦めたくなった人生初の映画
例によってネタバレ(史実なのでネタバレ云々も無いと言えば無いんですが)は避け、これから観る人に向けて若干の解説と個人的な思いをぶちまけていこうと思います。
とか言いつつ解説ご希望の方は他に良いサイトが山ほどあるのでそちらを参考にして頂いたほうが幸せになれるでしょう。あくまで自分の中の整理として、そしてノーラン映画としての印象を書いていこうかなと。
まずこの作品はオッペンハイマー目線のカラーパート(タイトルは原爆のエネルギー源である「核分裂」)と、ストローズ目線のモノクロパート(こちらは水爆のエネルギー源である「核融合」)の2つに分かれています。なぜ「原爆」と「水爆」が対立的に用いられているのかは結構重要な意味があるんですが、そこはネタバレ気味になってしまうので伏せておきます。が、その「対立軸にある2人のタイトルに原爆と水爆のエネルギー源が充てられている」ことは覚えておいた方が良いかもしれません。僕はいい加減に「原爆も水爆も似たようなものでしょ」ぐらいの認識だったため猛省しました。
話を戻しますが、このパートの違いからモノクロが過去でカラーが現在…というよくあるパターンではなく、カラーで行われている聴聞会はモノクロで行われている公聴会(聴聞会と公聴会もややこしいんですけど)と同時期だと思われるので、時系列としての色分けではなく、あくまで目線(オッペンハイマーとストローズ)の違いで色が変わるだけ、です。
ノーランの映画なだけに身構え気味ですが、時系列としてはそんなにややこしいこともないです。ただどちらのシーンにしても過去と現在両方が入り乱れてくる形ではあるので、まずその辺はこの手の作りに慣れていないとちょっとしんどいかもしれません。
わかりやすい判断材料としては、登場人物や舞台も参考になりますが、一番はメインとなる2人(キリアン・マーフィーとRDJ)の髪型で見ていくと割とわかりやすいかな、と。
キリアンは25歳設定だった「TIME/タイム」を彷彿とさせる学生時代の「おい学生はちょっと無理があるだろ」みたいな雰囲気から一気に老けた感じの現在(聴聞会)の姿とでだいぶ差があり、途中の原爆開発辺りではその中間で比較的わかりやすいです。
一方RDJは現在(公聴会)の雰囲気はかなり歳を取った感があり、髪の毛もだいぶ寂しく額が後退しています。抜いたんですかね、これは。
オッペンハイマーとの出会いぐらいだとだいぶ髪の毛も多いので、そこで結構わかるかなと。モノクロだから差がわかりづらいのは確かなんですが。
ただ正直時系列云々は(ノーランの映画としては)珍しくあまり複雑ではない…というか「混乱させようとした作り」ではないと思います。それよりも情報量がヤバい。
全体通して“その時その時で舞台を変える会話劇”なんじゃないかと思うぐらいにまーセリフの量が半端じゃない。おまけに長尺だからか極限まで切り詰めてものすごくサクサクスピーディに展開するので、過去一理解が追いつかない映画だったような気がします。
「TENET」も序盤のサクサクっぷりは印象に残っていましたがその比ではなく、とにかく“間”のようなものが介在する余地のないセリフの多さ。それは(特に)聴聞会のような“責め立てられる場”が舞台のときにより顕著に感じられ、もはや「字幕のルール」それ自体が映画に合っていないのではないかと思いました。
字幕はご存知の方も多いと思いますが一定のルールがあって、1秒当たり4文字だとか1行最大13文字だとかいろいろ制約があるらしいんですが、もうそれが追いついていない感じがするんですよね。映画のテンポが速すぎて。無理くりルールに収めているような印象で。
おまけに内容は量子物理学とかややこしい話が出てくるので、正直序盤はかなり眠くなりました。万全の状態で臨んだ劇場でのノーラン映画で眠くなるとか自分でもびっくりですよ。
振り返ると内容的にはそんなに理系に偏った難解なセリフばかりというわけでもなく、あくまで物理学に身を置く人が会話としてそういう単語を口にすることが多いだけではあるんですが、ただやっぱりテンポ良く切り詰めて難解な単語をポンポン繰り出してくる上に新しい登場人物がポンポン出て来る物量に追いつくだけで精一杯で、もうその脳の稼働ぶりがオーバーヒートして眠くなったんじゃないかと疑ってます。回りすぎてバターになるのと同じイメージですね。(そうなのか)
もう初めて「これは吹き替えのほうが向いてるかもしれない…」と思いましたよ。人生初。字幕を諦めたくなった映画。それぐらい情報量が度を越してる。
字幕を読む→脳内で展開する→理解、のプロセスがセリフのスピードに追いつかないので、もうマティアス・シュヴァイクホファーが出てきても「マティアス・シュヴァイクホファーじゃん」ってならないんですよね。「あっ見たことあるけど誰だっけ」から思い出そうとしてもその時間がないという。これは参りました。気付いたらもう脳がバターになってましたからね。
もちろん僕の能力不足故でもあるので、頭の良い人であれば全然問題ないのかもしれないし、もっと若い頃であればちゃんと処理できていたのかもしれませんが、それにしても相変わらず「(大衆向けの意味も含めて)世界一の監督」に位置するような人が(良い意味でも悪い意味でも)作る映画じゃねーだろと思わざるを得ませんでした。ようこれでアカデミー賞取りましたねという。
そんな流れの速さ、詰め込みっぷりからするとおそらく3時間でもまだ短い方で、なんならこれは全6話程度のミニ連ドラぐらいでやった方が向いていた話のような気もします。それを無理矢理映画にした感じ。それができるのもノーランの力量故だとは思いますが、それでももう少し丁寧さがほしい気はしました。テーマがテーマでもあるし。
原爆描写について
問題の原爆とオッペンハイマーの思いについては、いろいろバックボーンが伺えつつ、おそらくは多角的に捉えられる懐の広さのようなものも感じられ、非常に深い映画だなとは思いました。
観る人によっては「(悩んでいようが)原爆を作って虐殺に手を貸した極悪人」なんだろうし、違う人にとっては「十字架を背負わされた人」なんだろうし、原爆そのものについてもアメリカで広く言われる「戦争を終わらせた功績」にも見えるし、日本人のように「一般人に莫大な被害を与えた悪魔の所業」にも見えるし。
とある新聞には「アメリカがようやく原爆に向き合った映画」とか書いてありましたがそういう側面もありつつちょっと異議を唱えたくもあって、これはやっぱり“イギリス人監督”だから作れた映画なんだろうと思いますね。あらゆる意味で。
アメリカ人監督が作るのであれば、もっと被害についてお茶を濁す(そもそもそこに触れない)か、もしくはもっと英雄的に描くか、逆に「はだしのゲン」的に詳しく被害を描いて糾弾する内容になっていたような気がするんですよ。
「それがない」からダメだ、という意見も結構見聞きしましたが、これはきっと“当事者ではない”イギリス人監督だからこの描写だったんじゃないかなと思うんですよね。勝手に思ってるだけなんですけど。
ある意味では中途半端なので、ある意味では無責任でもあって。「肌が剥がれるのも綺麗な表現」であることにも意見が出ていましたが、それも含めて描きたくても描けなかったんだろうと思います。
それは興行的にアメリカで流せなくなるとかそういう配慮もあるかもしれませんが、それ以上に「そこに踏み込む意味合い」よりも「娯楽的な価値」としてそこまでで踏み止まることを選択したように感じました。
あえて悪意がある言い方をすると、「自分(ノーラン)が伝記映画を自分の作風として描くなら原爆の被害はこの程度まで」みたいな意図が働いている作りに見えるというか。別の言い方だと「そこを詳細に描くと作りたい作品の枠から外れる」感じがあったというか。
あくまで監督本人がやりたいことの枠組みの中では、そこまでグロテスクに詳細に触れるのは“違う”と思ったのではないかな、とノーランファン的には思ったんですよね。
それは功罪の話ではなくて、作風の問題というか。社会性を高めるより娯楽性に重きを置いたというか。その「社会性より娯楽性」を取ったことの良し悪しと、原爆被害をきっちり描かなかったことの良し悪しは別の問題です。
で、仮にこれがアメリカ人の手による映画だった場合、それはもうほぼ当事者となるので、やっぱり先に書いたどっちかに寄ると思うんですよ。
スパイク・リーが素朴な疑問として「広島と長崎で何が起きたのかを描いていない」ことに言及していましたが、まさにスパイク・リーが監督していたらそこはすごくしっかり触れていたと思うんですよね。
その違いはきっと配慮云々ではなくて、作風の違いと出自(アメリカ人とイギリス人)の違いなんじゃないのかなと。
ニュアンス的に文章で書くのが難しいんですが、おそらくノーランはそこについて軽く捉えてもいないだろうし描きたくなかったわけでもないだろうと思うんですが、ただ作風としてそこにフォーカスを当てすぎると映画全体の立ち位置や質が変わってしまうのを嫌がったのではないかなという気がするんですよね。それこそアカデミー賞からもそっぽを向かれちゃうだろうし、さすがにそろそろオスカーくれよ的な気持ちもあっただろうからある意味で「守りに入った」面もあったのでは…とこの辺は完全に邪推ですが。
同時に自分がアメリカ人だったらそれでもやったかもしれないけど、イギリス人だから“そうしないのも許される”のをわかってやったんじゃないかと。なにせ僕が言うのもおこがましいぐらいに頭のいい人だと思うので、その辺は言われなくても散々計算して「この形にした」のは間違いないでしょう。
そういう意味でもこの映画はノーランにしか撮れない映画なのは間違いなくて、もっと立場が近い人が撮る場合はどうしてもそこに対する真摯さが問われてしまうんだと思います。
ノーランはそれがわかっていたからこの話(オッペンハイマーの伝記)に“手を出せた”んだろうし、アメリカ人としても日本人としてもある程度許容できる落とし所に持っていったんじゃないかなという気がしました。それもまたすごい力量だなと思うんですが。
ノーランがやらなくても良かったんじゃね問題
一方でそういった(相当に)センシティブな話題を取り扱う映画の割に技巧に走っている感覚も強く、そこがノーラン映画っぽくもあるんですが今回ばかりは少々演出過多に感じられたのも事実です。
切り詰めまくる編集もそうですが、音の使い方にしても感心するぐらい上手いと同時にあざとさを感じるぐらい強調させる面も多くて、そのテクニカルさが仇となってテーマをぼやかしてしまった側面もあったように思います。
ほんの少しだけですが、やっぱりノーラン特有の作家性が、扱う問題の繊細さに蓋をしていたと思うんですよ。本当にほんの少しだけですが。
さすがに圧倒的な力を感じる映画なので面白いしすごい映画であることは異論の余地はないんですが、ただ本当に…ほんの少し、「お葬式に来たノーランが一見黒いスーツなんだけどよく見ると濃い紫のスーツを着てた」みたいな違和感があったんですよ。よく見たらそれはちょっと違うんじゃない? みたいな。
かと言ってじゃあちゃんと黒いスーツを着てくるような作りだったらノーランが作る意味もないし…と悩ましいところなんですが、まあぶっちゃけノーランがやらなくても良かったんじゃねとは思います。ノーランが作ったからこその映画であるのも間違いないんですが。
何言ってるのかよくわからないですね。
ノーランにしか作れない映画であることは間違いないながら、でもこの話だったら別の監督で良いでしょ感というか。
なにせノーランファンにとって彼の撮る映画は数年に一度の“大イベント”なので、この映画でそのイベントを消化したくない思いもすごくあるんですよ。もっとワクワクするようなオリジナル映画を観たかった、というのは正直な気持ち。
何でもかんでもSFにしろとは言いませんが、でもやっぱりノーランの「ぐおおおおおおおお」とグニャグニャするような気持ちよさはオリジナルの話だからこそ味わえるものだとも思うし、この映画の良し悪し関係なくそっちを観たかったよなぁという思いは強くありました。(「ダンケルク」でも公開当時は似たような思いを感じた)
ただ彼のキャリアを考える上で「同じような」難解なSFばっかりじゃ良くないのもわかるし、ここでちょっと違った方向性の映画も“彼らしく”作り、幅の広さと力量を見せつけるのも大事なんだろうというのもわかります。そしてその先にあったのがオスカー、ってことなんでしょうね。RDJ(とエマ・ストーン)の振る舞いには相当にがっかりしましたが。余談です。
なんだかとりとめのない感じになってきましたが、軽くまとめましょう。
映画として面白いのは間違いないですが、ノーランファンとして(+日本人として)複雑な思いもあり、「違った形で観たい映画だった、でも他の人ではこんなの作れない」という二律背反な感想に引き裂かれる映画、といったところでしょうか。
ただ過去一理解が追いついていなかったのも事実なので、また何度か観ると違った印象を持つであろう予感もあります。アマプラ辺りに来てくれたらすぐ観たいですね。(さすがにもう一度劇場に行こうとは思わない)
あとはまあ…そろそろまた弟(ジョナサン)と一緒に作ってくれませんかね…。
このシーンがイイ!
アインシュタインの存在が非常に印象的な映画だったので、やっぱりDANGDANG気になる(by 美味しんぼ)例の会話のシーンは鳥肌が立ちました。
あとは聴聞会中の“あの”シーンはすごいシーンだなと。すごい演出。嫌悪感も感じたけど、それこそが重要なんだろうし。
それとやっぱりトリニティの実験シーン。音の使い方が絶妙。
ココが○
結局「名前は知ってる」けどよく知らない、懐かしの「知ってるつもり?!」なオッペンハイマーについて理解が深まり、その上面白いのでそこはさすがです。
ココが×
やっぱり情報の詰め込み方が半端じゃないのでそこがどうしても大変です。ホントよくこんな映画をアカデミー賞にしたね!?
MVA
非常に多彩な方々が登場してすごい贅沢な映画なのも間違いないんですが、今作は…僕としてはこの人かなぁ。
エミリー・ブラント(キャサリン・“キティ”・オッペンハイマー役)
オッペンハイマーの妻。
エミリー・ブラントらしい美しさがありつつ気性の強さだったり意志の強さだったりまあいろいろ感じられて本当にお上手でした。アカデミー賞は逃しましたが彼女のキャリア的にも最高の演技だったのではないでしょうか。と適当なことを書いてます。
他に気になった方としては。
まずフローレンス・ピュー。重要な役回りを体を張って見事に演じていて次点。素晴らしかったです。
次にキリアン・マーフィー。彼も当然素晴らしかったです。ただ演技云々より「やっとノーラン作品の主演に選ばれて良かったね」という感慨の方が強い。
助演男優賞のRDJは実際それっぽかったもののあまり目新しい感じもなく、良くも悪くもいつもの(嫌な役の)RDJっぽい感じ。アカデミー賞授賞式の振る舞いのおかげでより憎たらしく見えたよ! ありがとよ!
マット・デイモンはちょっと彼が出てくると若干コメディライクになってしまうような感がありつつ、でもやっぱり良かったですね。
主要キャスト的に紹介されているケイシー・アフレックは全然ちょい役で、単なる「インターステラー」組へのサービス的な感じ。
ラミ・マレックもなんか急に出てきたような感じがしたんですが、気付いてなかっただけなのかなぁ。やっぱりもう一回観ないとですね…。